macaron books presents 北とぴあ演劇祭2010参加作品

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「何故今“少女病”なのか」

今作の出演者と交渉したり、知人に宣伝するにあたって、まず最初に尋ねることがある。
それは、この作品が田山花袋原作であることと、その原作を知っているかということだ。

答えから言うと、殆ど全員が知らないと答えた。
それもその筈、田山花袋の代表作と言ったら、十人中十人が“蒲団”と答えるだろう。
教科書などで自然主義文学の走りとして紹介されることも多いし、
何よりあの「好きな女の蒲団の匂いを嗅いで泣く」という衝撃のラストは、
100年もの長きに渡って世の女性達をドン引きさせ、童貞達の共感を得てきた。

俺自身、そういう“蒲団”のイメージのみで、田山花袋に親近感を感じていた。
しかし、俺は甘かった。田山花袋の底は、こんなものではなかったのだ。

それを教えてくれたのが、何を隠そうこの“少女病”。
今回このmacaron booksを企画するに辺り、スタッフの一人から、
「佐古田さんに読んでみて欲しい」と勧められたのが、俺と“少女病”の出会いだった。
そして、僅か10分程度で読めるこの短編に、俺は一気に魅了され、
取り扱う題材に決めたのだ。それぐらい、本作は余りに衝撃的だった。

主人公の杉田古城は、かつて少女小説で一山当てたものの、
今は雑誌編集に身を落とした冴えない中年男性。
その趣味はと言うと、混雑した山手線で好みの女性を物色すること。
この時点でもう、十二分に痛々しい。しかし、これはまだ序の口に過ぎない。
若い時代に燃えるような恋をしなかったことをひたすら後悔したり、
妻子ある自分は美しい少女ともう恋ができないと絶望したりする杉田の姿には、
得も言われぬ憐憫を感じる。しかし、同時にこうも感じたのだ。これは、俺の物語だと。

モテないことに絶望し、美しい少女が誰かに抱かれる様を想像して嫉妬し、
妄想や偶像に逃げ込む。それは今、ここで俺が抱えている病でもある。
むしろ、俺はこの作品を読む前、非モテ特有のこの病は、現代病だとも思っていた。
しかし、違った。非モテ達は、100年も前から絶望していたのだ。恐らく、それ以前も。
今、ここで、俺達非モテだけが辛い思いをしている訳ではなかった。
その普遍性を知った時、俺は共感を得たことに希望を感じ、
人類がこんな悪病と付き合い続けてきたことに絶望したよ。

そして、こんな現代に通用するテーマを描いている作品だからこそ、
今ここで俺が舞台化する意味があると思った。
折しも少子高齢化社会、「若者の結婚離れ」や「草食系男子」といった、
無責任な言葉がメディアを賑わせ、非モテ達をさらに絶望させているこの時代。
この作品を武器にして戦いを挑む、その意味は決して小さくない。

時代に合わせて、主人公を無職童貞半引きこもりニートの薫として、
新たな“少女病”を作らせてもらった。しかし、原作の印象的なセリフ、シーンは、
随所に盛り込んでいる。大胆な改変を施しながらも、これは確かに“少女病”だ。
是非とも、原作と併せて楽しんでもらいたい。どちらも、必ず響くものがある筈だ。

さらに、こうして非モテや童貞というフレーズを全面に押し出していると、
ともすれば露悪的な印象を抱かれてしまうかも知れないが、それは誤解だ。
決して、コートの下は裸でした、というような作品ではない。
コートの下は裸かも知れないが、その裸体には願いが刻まれている。
これは、エンターテイメントであり、歴とした人の物語だ。

100年の時を超えて、田山花袋の闇と、佐古田康之の闇が出会う。
彼の心は知らないが、俺は俺で26年間、殊更性に関しては思い悩んで生きてきた。
悩んできたことの意味を、俺はこの“少女病”にぶつけた。
そして、ぶつけることで一つの答えを得た。それを是非、皆様にも見届けて欲しい。
非モテもリア充も、童貞も非童貞も関係なく、“少女病”は出会うべき作品だ。

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